【中村莟玉さんインタビュー】②

《Profile》中村莟玉さん

1996年9月生まれ。東京都出身。歌舞伎俳優(屋号は高砂屋)。9歳の時に本名である森正琢磨の名前で初舞台を踏む。翌年の2006年に中村梅玉の部屋子となり、同年に中村梅丸を名のり本格的に歌舞伎俳優として歩み始める。その後2019年に人間国宝・中村梅玉の養子となり、初代中村莟玉を襲名。立役、女方ともに熟し、今歌舞伎界の枠を超え人気急上昇中の若手のホープ。2025年放映の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の西村屋万次郎役が記憶に新しい。歌舞伎、舞台、映像において、今後ますます目が離せない存在。

◆公演情報

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歌舞伎座デビューは2歳の時。物心つく前から、歌舞伎に魅了されていたようです

映画「国宝」が公開されてからというもの、とにかく色んな方から「国宝観た?」って訊かれるんです。歌舞伎界における境遇が似ている部分もありますから、そんな僕が映画を観てどんな感想を持つのか気になられるのかもしれませんね。実際に鑑賞させていただきましたが、作品の素晴らしさは言わずもがな、「まるで僕のようだ!」とはもちろん思いませんでしたよ(笑)。似ているところもありましたが、同じくらい違うところもありました。ですが「国宝」を通じて僕のことを知ってくださった方々も沢山いらっしゃるので、それは大変有難いことだと思っています。

喜久雄と似ている最たる部分は、僕が梨園の御曹司ではなく、一般の家庭から歌舞伎界に入ったところだと思います。元々僕の母が歌舞伎の大ファンで、大学時代に「桜姫東文章」という演目を観てハマったそうなんです。仁左衛門のおじ様や玉三郎のお兄さんのペアですね。あとは勘三郎のおじ様が出演されている歌舞伎も好んで観に行っていたようです。その後就職をして結婚し、子育てがあったので劇場に行けなくなり、しばらくはNHKの歌舞伎の劇場中継などで凌いでいたところ、僕が食いついたみたいです。物心つく前のことでしたが、テレビに行儀良く正座して画面に釘づけになってる写真が残っています(笑)。4歳年上の姉がいるんですが、姉はちっとも歌舞伎に興味を示さなかったみたいで、同じ環境で育っても興味のベクトルが違うのが面白いですね。

運命が動き出した。仁左衛門のおじ様の「切られ与三」ごっこ

僕は小さい頃、将来なりたいものが3つあったんです。歌舞伎俳優と、電車の運転手と、それからウルトラマン(笑)。歌舞伎俳優はともかく、後の2つは男の子なら大体憧れますよね。日によってなりたい順位は入れ替わるんですが、それら以外は入ってこなかったなぁ。

初めて歌舞伎座で歌舞伎を観たのは僕が2歳の時。その頃には母とテレビ中継で歌舞伎を観ることは日常でしたが、飽きない僕を見て、「なら劇場に連れて行ってみようかな」とふと思ったようです。歌舞伎座に問い合わせたところ未就学児でも観劇OKとの事で、晴れて初観劇することに。でも何を観たのか全く憶えていないんですよ。母の推しは仁左衛門のおじ様や玉三郎のお兄さん、勘三郎のおじ様だったので、おそらくその方々が出られている演目だと思うんですけどね。いずれにせよその頃から、ときどき母が劇場に連れて行ってくれて、どんどん歌舞伎の沼にハマっていきました。

事が動いたのは5歳の時です。出版業界に勤めていた母が仕事の関係で、新橋の芸者さん達の「東をどり」の催しに「息子さん歌舞伎がお好きならご一緒に」とご招待いただくことになって。ご厚意で催しのための手拭いまでいただいたんですよ。客席に向かって催しの手拭いを撒くというのは歌舞伎や舞踊ではよくあることなのですが、僕達の席までは届かないから、と。そして劇場のロビーでいただいた手拭いをほっかむりして、その2ヶ月前にかかっていた仁左衛門のおじ様の「切られ与三」の格好良い伊豆屋与三郎の真似事をして遊んでいたら、「君、何してるの?」と声をかけてくださったのが、日本舞踊の先生だったんです。僕のことを面白がってくれて、「良かったら遊びにおいで」とお誘いいただき、先生が当時構えていらした歌舞伎座の真裏にある稽古場に通わせてもらうことに。そこからは幸運なことに、あれよあれよとご縁が繋がっていきました。稽古場の近くの食べ物屋さんで顔見知りになったのが当時の歌舞伎座の支配人だったり、先生がその方に、僕が歌舞伎俳優になりたいことを口添えしてくださったり。偶然とご縁、タイミングが重なって、後の養父となる中村梅玉と出会ったのが、僕が小学2年生になる年の3月でした。

本名で初舞台。中村梅丸を経て、初代中村莟玉へ

梅玉の最初の印象は、「優しそうな人。でも実は凄く厳しい人」ですかね。最初は遊び感覚がありつつ、土日だけ梅玉の楽屋に通うようになり、ちょっとした身の回りのお手伝いをさせていただいていました。僕の母も梅玉も「どうせすぐに飽きて辞めるだろう」と思っていたらしいのですが、いつまでも辞めない(笑)。「じゃあ舞台に出てみる?」となって歌舞伎の初舞台を踏んだのが9歳の時です。一般家庭の人は国立劇場の養成所を経て初舞台を踏むのが通例なので、当時としてはレアだったようですね。

初舞台のことですか?よく憶えています。梅玉がお殿様の役で、僕はその太刀持ちの役。セリフはなくて、10分とか15分とかただ座っているだけで、梅玉と一緒に舞台から捌けるというもの。あのとき舞台から見た客席の光景は、絵として強烈に憶えています。歌舞伎は約1ヶ月間公演がありますが、毎日学校を早退して劇場に行くのが楽しみで仕方ありませんでした。既にその頃からやり甲斐を感じていたんでしょうね。本名で初舞台を踏み、その翌年に梅玉の部屋子になって、同時に中村梅丸という名前をいただき、歌舞伎俳優として正式にデビューすることになりました。両親は「良かったね」とは言ってくれましたが、「後戻りできないんじゃない?」と心配もしていたようです。歌舞伎界は厳しい!という先入観もあって、母は「あんた今は名前もらって浮かれているけど、稽古は厳しいよ?木に縛られるかもよ?」なんてビビらせてきましたし(笑)。その後、梅丸を13年間名乗り、「まるちゃん」とか「まるる」などの愛称をもって、先輩方やお客様方に可愛がっていただきました。

このようにお話しすると順調な感じもしますが、20代になりたての頃かな?進路について悩むこともありましたね。大学に進学したのですが、周りの友達が進路をどんどん決めていく中、「自分はこの先どうなるのかな?ただ目の前のことを頑張るだけでいいのかな?」と思うことが増えていきました。「もっと大人になって自立しないと」、と密かに焦っていたんです。今思えば、それは味わっておくべき感情だったのだと思いますね。悶々としながらも、自分がどうなっていきたいのか否応なく向き合う時期でもありましたから。梅丸として数々の演目に出させていただき、若手の登竜門である浅草歌舞伎にも呼んでいただいて、御曹司の先輩方には末の弟のように可愛がってもらいました。そんな中、もっと結果を出したい、名題昇進をして幹部俳優になりたい、憧れて夢を見るのではなく、現実的に理想を追えるポジションに行きたい、と願うようになったのは、ごく自然なことだったと思います。

衣装クレジット

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本記事は、美ST編集部が取材・編集しました。「美ST」は16年以上にわたり、40代&50代女性の美容とライフスタイルを追求してきた月刊美容誌です。

撮影/佐藤容平 ヘア・メーク/森永瑠衣(mfn) スタイリスト/藤長祥平 取材/キッカワ皆樹 編集/西村公寿

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